今回は、松平容保について書いていきます。
幕末の混乱期に朝廷と幕府にひたすら尽くしたにも関わらず、最終的には朝敵とされ官軍に攻められる立場になってしまいました。
全体的に悲劇の貴公子のイメージがありますね。
どんな人物だったのか、さっそく見ていきましょー!
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松平容保の会津松平家は徳川将軍家の親戚の家柄
松平容保が生まれた会津松平家は、徳川将軍家の遠い親戚にあたる家柄です。
初代は徳川2代将軍、徳川秀忠の息子として生まれた保科正之という人物です。
江戸幕府初代将軍、徳川家康の孫に当たりますね。
創立初期の江戸幕府で、当時の将軍であり兄でもある徳川家光から重要なポジションを与えられ、さらに名君であったことから会津松平家は徳川御三家に次ぐ高い家柄を与えられました。
その会津藩において、9代目の藩主になったのが松平容保というわけです。
ちなみに、容保自身は水戸徳川家(徳川御三家の一つ)から養子に来ているので、保科正之の直系の子孫というわけではありません。
当時は結構そういうことがあって、後継ぎの男子がいない場合は他の家から養子を迎えて家を継がせるということが頻繁に行われていました。
会津藩の行動規範【会津藩家訓15条】
そんな保科正之が会津藩に残した行動規範として、「会津藩家訓15条」というものがあります。
その第一条に、以下の条文があります。
現代語に訳すと、「他の大名がどうとか気にせずに、徳川家に忠誠を誓いなさい。もしそうしなかったら、自分の子孫とは認めないから、皆そんなやつには従わなくてよし!」って感じですかね。
こんな感じで、容保は徳川家と切っても切れない関係だったので、幕末期の行動も当然幕府寄り、徳川家寄りになっていきます。
このポジションが、後に悲劇を招くことになるのですが。。。
幕末の混乱期に、重職である京都守護を務める
容保が生きたのは、幕末の最も混乱している時代です。
当時の政治の中心地は幕府のある江戸から、朝廷のある京都に移ります。
京都では、長州藩を筆頭に朝廷を利用し幕府を倒そうとする勢力が活動しており、治安が急激に悪化していました。
その京都の治安維持を命じられたのが、容保だったのです。
他にも候補はいましたが、当時の京都で治安維持にあたるのはリスクが高いため誰もやりたがらず、容保に回ってきたのです。
ここで重役を引き受けたのも、会津藩家訓によって徳川家のために尽くすという行動指針が影響していますね。
こうして、京都の治安維持を担当する京都守護職に就任しました。
余談ですが、京都守護職の部下にはあの新撰組もあり、容保の指揮下にあったのです。
京都守護職として、倒幕を前面に活動していた長州藩(現在の山口県)の勢力を京都から追放するなど活躍します。(八月十八日の政変、蛤御門の変)
就任以来の功績によって、当時の孝明天皇にも全幅の信頼を置かれていました。
京都守護職を退任する際には、また戻ってくるように懇願されるほどです。
鳥羽伏見の戦いに敗れて朝敵となる。
長州藩と薩摩藩(現在の鹿児島県)が手を結んで倒幕派の勢力が優勢になると、一転して官軍から追われる立場になります。
鳥羽伏見の戦いでは、最後の将軍徳川慶喜に連れられ、戦いの最中であるにも関わらず、軍艦に乗って大将自ら戦線を離脱しています。
この時の行為を恥じて、藩主を辞任します。
その後の会津藩は、ご存知の方も多いかもしれませんが、官軍に攻められ降伏、鶴ヶ城は落城してしまいます。【会津戦争】
この戦争の中で、白虎隊の悲劇が繰り広げられることとなりました。
さらに戦後処理で、会津松平家は陸奥国の斗南藩(今の青森県)に左遷されてしまい、苦難の道を辿ることになります。
斗南藩の話はまた別の機会に書こうと思います。
晩年
晩年は、東京に移って隠居し、日光東照宮宮司、上野東照宮祠官を務めるなど、神職として活動しました。
東京の自邸で59歳で世を去りました。
まとめ
波乱の時代の中で、幕府に忠誠を誓って最後まで幕府のために行動し、常に政治の中心で活躍しましたが、最後は自らの判断で自藩の人々を会津戦争や東北地方への左遷、移住によって苦しめることになってしまいました。
最晩年は、そのようなことからの自責の念に苛まれていたことと思います。
しかし、自分の信念を貫いて行動し続けたことでとても魅力のある人物です。